軸足に体重を全部のせて、流す脚のハムをいれるのが良さそう。真ん中に重心乗せるとあんま良くない。安定しないを
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「できるだけたくさんの人に知ってもらう」と、「できるだけたくさんのことを知ってもらう」は違う
タイトルにもあるように、「たくさん知ってもらう」というのでも、「できるだけたくさんの人」と「できるだけたくさんのこと」ってのは全然違うなと思うわけです。
例えば、私は多分けっこうたくさんの人に知られてるんですよ。それはyoutubeで取材を受けた動画が3本ぐらいでトータル3000万再生ぐらいされているので、それぐらいの人に見られてるんですね。でも、それを見てる人たちのほとんどは私の趣味がボディビルであることは知らないんですよ。もしかしたら学校の先生してることすら知らない人もいると思う。一方で、私の友人とか家族はそこまで多くいるわけじゃないですけど、私についていろんなことを知ってるんですね。
という感じで、「たくさんの人」に知ってもらうことは、「たくさんのこと」を知ってもらうのとは根本的に違うなあと思うんです。
で、何がしたいかというと「たくさんのこと」を知ってもらう人を増やしていきたいなと思ってるんですが、これは基本的に「たくさんの人」に知ってもらうことと相性が良くない。というか、あまりにもたくさんの人に知られるのは基本的にリスクだと思っています。それは誤解をはらむからですね。特にインターネットで。自分の村では適切に届く言葉でも、他の村に届くと侮辱になりうる。それはあまり良くないな、と。
という話ですね。なので、バズらないように、ちゃんとわかってくれそうな人たちに向けて言葉を紡いでいく。
一面的な切り取りを発信し続けることも、肌感覚としておそらく良くないと感じているからですね。これは大局観的な話であり、かつ、肌感覚です。客観的な信憑性はまったくないw
とはいっても、じゃあどうやって集客するんですか?という話になるわけです。これが難しい。でも、まあ、これまでの経験から言うとそういった「ちゃんと知りたい」みたいな人が来たときに集まる場所がないことは愚策だと思っているので、その場所を用意しようと思っているわけです。ラジオとか、個人HPとか、そういった場所はバズらないけど、集まれる場所ではあると思うから。
あ、ラジオみたいなの始めようかなと思ってます。たこやき先生のバズらないラジオ。
今、すでに「自分のことを知ろうという人」が多分いるんですね。その人たちに向けて、番組を作ってしゃべろう。個人HPでの記事更新がふらふらと続いてるのすごいなと思ってます。これは良い場所だった。文章はむちゃくちゃで、たぶん「たくさんの人」には届かないけど「たくさんのこと」を知ってもらえそうだ。おわり。
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振り返りについて。
振り返りについて考える。
振り返るというのは、結局のところカードゲームがうまくなるようなものなんだろうと思う。
カードゲームというのは、盤面に応じて手札を出していくゲームだ。人生というのはカードゲームによく似ている。限られた手札を盤面に合わせて使っていく。
ただし、人生はカードゲームとすこし違うところがある。
それは、みんな自分の手札をよくわかってないことだ。
多くの人間は自分の手札に何があるかわかっていない。自分はどんなことが得意なのか?どんな場面で力が発揮できるのか、あるいは何らかの状況にある時、明らかに弱体化してしまう。そういったことが1つ1つ見えていなければその手札はうまく使えない。
客観的な指標が見えるものはある程度理解しやすい。例えば同級生に比べてテストの点数が取れるだとか、他の同級生に比べて足が速いとか。そういったことは数値化されて非常に見やすい。一方でそういった数値化されないもの、観測しづらいもの、はなかなか自分の手札として認識することができない。例えば他の人たちよりもうまく説明ができるとか先輩たちとうまく関わることができるとか、他人に合わすことができるとか。あるいはその逆で他人とうまく合わせられないとか。説明が下手だとか。そういったことは実は自分では結構認識しづらいものである。この普段数値化されない能力といったものはいつ気づくのだろうかと言うと、実際そういう場面に何度も遭遇して、他人から指摘されて、それで「あ、自分はこうだったのか」と気づくのである。これこそが振り返りだ。
例えばテスト勉強を振り返ってみようと考えた時に実際の成績が良かったか、悪かったかというのは事実であるが、その事実に対してどういった取り組みを行ったかというのは、振り返らなければなかなか見えないものである。社会の点数が取れたのは、ワークを何周もすることができたからだとか。数学の点数が悪かったのは復習しようと思っていたのに寝てしまったとか。
自分の手札に何があるのかというのは経験するだけではなかなか分からない。それを振り返って初めて気づくものである。先ほどの例であげれば、ワークを何周もしたけども、成績が上がらない人もいれば、ワークを何周もして成績が上がったという人もいる。様々な勉強方法を試していく中で自分にあった勉強方法というのが見つかってくるのである。これはすなわち手札だ。
復習しようと思っていたのに寝てしまったというのも自分の手札の1つになる。これはそのままだと手札にならないので、どういった環境であれば寝ずに勉強ができるのかとか。あるいは夜はどうしても寝てしまうので、それは変えられないから、夜に勉強することは諦めてしまうというのも1つである。つまり、夜どうしても起きて勉強することができないというのは自分の手札なのである。ネガティブに見えるかもしれないが、これは常に自分に影響を及ぼしてしまうタイプのカードなのである。ただ、このカードが悪影響を及ばさないプレイングは可能だろう。夜が使えないとわかっていれば、使わなくても問題ないように生活すればよいのだ。
そう考えると、この人生というカードゲームというのは可変的なものと固定的なものがあることが分かる。それも全て可変であり、全て固定であるというよりかは、ある程度可変的であり、ある程度固定的である。
手札はおよその場合、「こうすればこうなる」と言った固定的なものであろう。一方で、じゃあその場面でどのカードを切るのかというのは可変的な部分である。
例えばトランプの大富豪で考えると、手札にあるカードは決まっている。それは配られたカードで勝負するしかないからだ。とはいえ、どの順番でカードを切っていくのかということはえ変えることができる。これが固定的なものと可変的なものの、大きな違いだ。ただ、人生において多くのプレイヤーは手札に何があるかもわからずに大富豪をプレイしている状態に陥っている。
振り返るというのは1回だけ固有の状況に対して行うものではない。様々な状況において振り返りを繰り返していくことで、自分の手札には何があるのか?これをまず明確にしていくのが大切だ。そうすれば、その後は各場面に対してどのカードを切っていくのかというプレイングのところも洗練されていくのである。
自分の手札というのは、自分の性質やり方のみに限定されるものではない。例えば友人だとか自分の持ってるお金だとか、そういった外的なアセットのようなものも自分の手札になるだろう。これは状況に応じて明らかに変わっていくものであり、また観測もしやすいので、それほど振り返る必要はないかもしれない。整理することはとても大切だが。
少し話が散らかってしまった。とにかく人生とはカードゲームに似ている。ただ、残念ながら手札がよく見えないのだ。だから、自分の手札を少しずつ明らかにしていく必要がある。その方法が振り返りなのだ。経験を経て、何ができるのか、何ができないのか、それを明らかにしていく。
振り返りとはカードゲームが上手くなる方法みたいなものだろう。
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日常をこそ
ありきたりな毎日が好きだ。
今日は昨日と変わりないし、明日は今日の繰り返し。
明後日には今日の出来事なんて忘れている。
そんな毎日が好きだ。
大好きだ。
感情を大きく揺さぶるような出来事なんて、起こらない。
めちゃくちゃ楽しいなんてことも、まるでない。それでも、心地良い。続けたいと思う。
鶏むね肉と白米と味噌汁の食事って大したことはない。でも毎食「美味しいな」って感じられる。
感動なんていらない。
繰り返しの毎日。ネガティブに語られることもあるが、そんなことは絶対にない。ぬるま湯につかったような。特に刺激もない日々。
本当の日常は語るべき物語にならない。それはまるで変化のない毎日だから。でも確実に変わってるんだよな。共に生きている。
イベントは楽しい。感動だってする。高価な外食は特別に美味しいかもしれない。でも、俺はイベントを生きられない。毎日コース料理は食べたくない。
イベントは好きだ。でも、それを日々にはしたくない。どうしてかはわからない。日常を好きな理由すらわからない。でも理由なんていらないんだよな。確信しているから。
家族と過ごす日々、鶏むね肉を食べて、たこやき屋さんで子どもたちとくだらない話をする。
日常をこそ
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目標と努力。呪いが足りない。
そもそも、「努力をした方が良い」みたいな考え方が嫌いだ。
うまくやるなら、努力せずにうまくやれる分野を見つけて、そこで過ごした方が良い。
努力したからといって、成果が出るわけではない。根本的に向いていない種目を選んでいる可能性がある。自分よりも頑張っていないやつが自分よりも成果を出すことなんてよくある話だ。なら、根本的に向いている種目を選んで、努力をせずに努力しているヤツよりも成果を出せばいい。成果を出すだけの世界なら、だ。
ただ、人類は愚かである。「どうしてもここで勝ちたい」と思ってしまうことがある。その才能がないにも関わらず。どうしようもなく囚われてしまっている。それは自分に向いているかは関係がない。単に、「どうしてもここで勝ちたい」と思ってしまっただけだ。それを目標と呼んだりすることもある。
根本的に向いていないにも関わらず、そこで成果を出したいと思ってしまったらどうすればいいのか?
努力するしかないのだ。
才能があるか?向いているか?そんなことは一切関係がない。「どうしてもここで勝ちたい」そう思ってしまったのなら、やるしかないのだ。
「どうしてもここで勝ちたい。でも才能がない。」
「なら辞めるか?」
「いいや、やめられない。」
「だって、どうしてもここで勝ちたいからだ。」「どうしてもここで勝ちたい。そして才能があった。」
「なら努力しないのか?」
「いいや、努力する。」
「だって、どうしてもここで勝ちたいからだ。」努力するかしないか。実はそれは才能の有無に関係ない。その目標に今の自分が達しているかどうかだけだ。目標があって、努力ができないのなら、それは「本当にやりたいと思えていないだけ」だろう。より優先すべきことがあっただけだ。呪いが足りない。もっと呪われなくてはならない。
そもそも、「努力をした方が良い」みたいな考え方が嫌いだ。
目標があるなら努力した方が良いと思う。でも、そもそも目標を持たないで生きる生き方だってある。そこに努力なんていらない。楽しく生きることだってできる。努力しなければならないなんて嘘だ。条件つきの行為でしかない。むしろ、努力なんてするべきじゃないってシーンすらある。好きこそものの上手なれという言葉だってある。
でも、もし目標があるのなら、努力した方が良い。というか、しなければならない。する以外の選択肢はない。だって、「どうしてもここで勝ちたい」んだから。囚われているんだから。
努力できないのなら呪いが足りないんだろう。
呪いが足りない。
もっと呪いを。
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コンディショニングを怠らない
私は愚かなので、コンディショニングの重要性を理解してもすぐに忘れるさぼってしまう。
調子が悪くなってコンディショニングをして調子が良くなる。それを数週間続ける。そうするとそれが当たり前だと思うようになり、コンディショニングをサボってしまう。そして数週間数ヶ月経つとなんだか少しずつ悪くなっていって、なんだか調子が悪いなという形になってくる。そこで初めてコンディショニングが崩れてるのではないかと気づく。そして調子が良かった頃、どんなコンディショニングをしていたのかも思い出せず、試行錯誤をしてどうにかたどり着く。そんなことを繰り返している。
最近も、目がずっと重くて首も痛くて、なんとなく肩周りが全部調子悪かったんですけど、ちょっと思い立ってマッサージをしたり、コンディショニングを重視したら結構良くなりましたんで、備忘録として残しときます。
胸鎖乳突筋のマッサージを起始部から停止部までかけて全部やります。
後頭下筋のマッサージをします。
オガトレのストレッチやります。
あとはそれに加えて、体の声を聞きながら、ちょっとマッサージやストレッチをしていきます。完了。
胸鎖関節の動きを出します。
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脳筋
負荷をかけなきゃいけない。
負荷をかけないところは衰える一方だ。
私はボディビルをしていて、どうしても脳筋な部分があるんだけど、負荷は必要なんだと思う。
筋肉以外も同じなんだろう。
しんどいな、やりたくないな。それでも負荷をかけないといけない。そうしないと維持すらできない。
とはいえ、休むときは休ませないといけない。
疲労が蓄積してるときは負荷をかけることすらできない。漸減するだけだから。負荷をかけるときはキャパを広げるための負荷をかけないといけない。疲れているときに、それだけの負荷はかけられない。
まあ、胃の話をしているんだけど。
胃の調子が悪くて、固形を減らそうと思っているんだけど、それをずっと続けていたらきっと食べられなくなってしまう。減量期が終わった後は、胃のキャパが小さくなってしまってるのを感じる。食べられない。危機感がある。これを続けていたら食べられなくなってしまうんじゃないか。食べられるというのは生物の強さだと思うから。
だから、固形物を減らすのは一時的にしようと思っている。
休憩は必要だけど、負荷も必要で。
胃の調子が復活したら、また少し胃に負荷をかけてもいいかなと思っている。何が正しいかわからん。なんもわからん。脳筋っぽいなと思う。でも、まあ、大きく間違ってるわけではない気がする。とりあえず少し胃を休めよう。
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割り切った関係
昨日noteを書いた。
結局、たこやき屋での日々が好きだ。北海道で教育長との対談イベントして気づいたこと。https://note.com/kawahii/n/n89353da946d5
個人的にはとてもよくかけた気がする。時間はかからなかった。これ自体を見ると別に大したことない話なんだが、これは個人HPのおかげだと感じる。少し説明しづらい感覚なんだがせっかくなので、言葉にしておこうと思う。
私の中にはいつもたくさんの言葉や考えが飛び交っている。それは、状況に応じて出力されていく。noteであれば、ある程度お店に関係する話だけを書いて出している。それは媒体や相手、状況に応じて出しているだけだ。講演であればその視聴者に応じて出している。
だが、noteなどの長文は何かうまく出力できないことが多い。いや、noteに限らずテキストで書ききらないといけないケースではうまく描けないことが多い。それは気負いによる部分が多かったのだと思う。書ききらなければならない。誤解を生んではならない。私の考えるこの素晴らしいものを誤りなく伝わるように表現しないといけない。そのような気負いだ。それは、自分が表現するものに対して思い入れが強いほど大きくなる。この、気負い。この気負いが個人HPを持つことで緩和されたような気がする。
というのも、わかってもらえないことを今まで以上に受け入れられたからだ。自分の考えていることの羅列は全て表現したい。そういった欲望は個人HPにゆだねてしまった。統合的な私というものを表現することを良い意味で諦めた。それは全て個人HPを覗いてくれている人に向けて書けばいい。全てを伝えることは諦めて読みたい人に向けて書けばいい。それができるようになった気がする。
すると何が起きたか?
書きやすくなっただけではなく、noteでも自分を表現できるようになった気がする。肩の力が抜けたのかもしれない。どうせ、伝わらない。伝わって欲しい事はHPに書けばいい。noteには読んでくれる人に向けて書けることをただ書こう。そう思えるようになった結果、今までよりも書けるようになった。世には欲望センサーというものがある。これが真理かどうか知らないが、私にとって欲望センサーはとても重要だ。中学時代に好きなあの子の前では上手く話せなかった。私にとって大切なものはパフォーマンスを下げる要素なのだ。大切さを感じなくすること。気負いをなくすこと。それがパフォーマンスを向上させる。
noteは今までストック型で自分の情報を統合的に書いていこうと思っていた。それが個人HPを持つことで、noteとの関係性を割り切ることができた。皮肉なもんだ。割り切った方がうまく付き合える。
まだ、個人HPを持って数週間しか経たないが、どうもそんな効果がありそうだ。
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生存、生活、渇望
優先順位をつけて生きている。
私にとって圧倒的に大切なもの。というか比べようがないもの。おそらく自分の命よりも優先するもの。それは娘が生きていること。それが人生の全てであり、他に比することができない。それが私にとっての生存である。これのために全てがある。そして、この生存は「より良く」というものはない。娘が生きているということが脅かされていなければ私の生存は全て満たされている。これは家族である。生存である。私の最も内部にあるもの。それが家族であり、もっともっと限定していけば娘が生きていることである。これが脅かされるとき、私はそのすべてをかなぐり捨ててでも守らなくてはならない。
私にとって、この生存つまり家族と私が生き延びていること。こが満たされていれば他のすべてはオマケでしかない。あらゆることがオマケである。
このオマケの中でも最も優先順位が高いものが私にとっては雑談であり、つまり、たこやき屋さんである。ここには私の生活がある。役割(機能性)のみによるつながりではなく、関係性のつながりである。雑談は機能性ではない、それ自体が目的である。幸いなことにたこやき屋さんを始めてから住んでいる町で雑談できる人がたくさん生まれた。町を歩けば知り合いにあたる。ここには生活がある。機能性のみで分割されていない、統合的な生活がある。これは、生存の次に全てを捨てたとしても手に入れたい。私にとって豊かさそのものである。
そして、生存、生活が満たされたうえで今もっとも情熱的に渇望しているのがボディビルである。生存や生活には評価軸が存在しない。そこはあらゆる評価軸が溶け出し、他人からの評価を必要としない世界だ。それはとても心地いい。それは豊かさだ。ただ、そこに渇望はない。渇望はあえて他人の用意した評価軸において自分が通用するかを挑戦することだ。冷静に考えれば100m走でどれだけ速く走れるかなんてほとんどの人にとって意味がない。しかし、そこに世界中の人が熱狂する。それは物語の力だ。それは物差しの力だ。そこに私は挑戦している。他人の物語の中に自分を埋め込もうとしている。今、自分の人生の時間のほとんどをボディビルに費やそうとしている。渇望している。
私の情熱は現在、ボディビル⇒たこやき屋さん⇒家族だ。しかし、優先順位は家族⇒たこやき屋さん⇒ボディビルだ。何かを手放さなくてはならない時、最も先に手放すものはボディビルだ。いつか、選択を迫られる日が来るかもしれない。そのとき、全てを失わないために、今この瞬間に常に優先順位をつけている。