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  • 割り切った関係

    昨日noteを書いた。

    結局、たこやき屋での日々が好きだ。北海道で教育長との対談イベントして気づいたこと。https://note.com/kawahii/n/n89353da946d5

    個人的にはとてもよくかけた気がする。時間はかからなかった。これ自体を見ると別に大したことない話なんだが、これは個人HPのおかげだと感じる。少し説明しづらい感覚なんだがせっかくなので、言葉にしておこうと思う。

    私の中にはいつもたくさんの言葉や考えが飛び交っている。それは、状況に応じて出力されていく。noteであれば、ある程度お店に関係する話だけを書いて出している。それは媒体や相手、状況に応じて出しているだけだ。講演であればその視聴者に応じて出している。

    だが、noteなどの長文は何かうまく出力できないことが多い。いや、noteに限らずテキストで書ききらないといけないケースではうまく描けないことが多い。それは気負いによる部分が多かったのだと思う。書ききらなければならない。誤解を生んではならない。私の考えるこの素晴らしいものを誤りなく伝わるように表現しないといけない。そのような気負いだ。それは、自分が表現するものに対して思い入れが強いほど大きくなる。この、気負い。この気負いが個人HPを持つことで緩和されたような気がする。

    というのも、わかってもらえないことを今まで以上に受け入れられたからだ。自分の考えていることの羅列は全て表現したい。そういった欲望は個人HPにゆだねてしまった。統合的な私というものを表現することを良い意味で諦めた。それは全て個人HPを覗いてくれている人に向けて書けばいい。全てを伝えることは諦めて読みたい人に向けて書けばいい。それができるようになった気がする。

    すると何が起きたか?

    書きやすくなっただけではなく、noteでも自分を表現できるようになった気がする。肩の力が抜けたのかもしれない。どうせ、伝わらない。伝わって欲しい事はHPに書けばいい。noteには読んでくれる人に向けて書けることをただ書こう。そう思えるようになった結果、今までよりも書けるようになった。世には欲望センサーというものがある。これが真理かどうか知らないが、私にとって欲望センサーはとても重要だ。中学時代に好きなあの子の前では上手く話せなかった。私にとって大切なものはパフォーマンスを下げる要素なのだ。大切さを感じなくすること。気負いをなくすこと。それがパフォーマンスを向上させる。

    noteは今までストック型で自分の情報を統合的に書いていこうと思っていた。それが個人HPを持つことで、noteとの関係性を割り切ることができた。皮肉なもんだ。割り切った方がうまく付き合える。

    まだ、個人HPを持って数週間しか経たないが、どうもそんな効果がありそうだ。

  • 生存、生活、渇望

    優先順位をつけて生きている。

    私にとって圧倒的に大切なもの。というか比べようがないもの。おそらく自分の命よりも優先するもの。それは娘が生きていること。それが人生の全てであり、他に比することができない。それが私にとっての生存である。これのために全てがある。そして、この生存は「より良く」というものはない。娘が生きているということが脅かされていなければ私の生存は全て満たされている。これは家族である。生存である。私の最も内部にあるもの。それが家族であり、もっともっと限定していけば娘が生きていることである。これが脅かされるとき、私はそのすべてをかなぐり捨ててでも守らなくてはならない。

    私にとって、この生存つまり家族と私が生き延びていること。こが満たされていれば他のすべてはオマケでしかない。あらゆることがオマケである。

    このオマケの中でも最も優先順位が高いものが私にとっては雑談であり、つまり、たこやき屋さんである。ここには私の生活がある。役割(機能性)のみによるつながりではなく、関係性のつながりである。雑談は機能性ではない、それ自体が目的である。幸いなことにたこやき屋さんを始めてから住んでいる町で雑談できる人がたくさん生まれた。町を歩けば知り合いにあたる。ここには生活がある。機能性のみで分割されていない、統合的な生活がある。これは、生存の次に全てを捨てたとしても手に入れたい。私にとって豊かさそのものである。

    そして、生存、生活が満たされたうえで今もっとも情熱的に渇望しているのがボディビルである。生存や生活には評価軸が存在しない。そこはあらゆる評価軸が溶け出し、他人からの評価を必要としない世界だ。それはとても心地いい。それは豊かさだ。ただ、そこに渇望はない。渇望はあえて他人の用意した評価軸において自分が通用するかを挑戦することだ。冷静に考えれば100m走でどれだけ速く走れるかなんてほとんどの人にとって意味がない。しかし、そこに世界中の人が熱狂する。それは物語の力だ。それは物差しの力だ。そこに私は挑戦している。他人の物語の中に自分を埋め込もうとしている。今、自分の人生の時間のほとんどをボディビルに費やそうとしている。渇望している。

    私の情熱は現在、ボディビル⇒たこやき屋さん⇒家族だ。しかし、優先順位は家族⇒たこやき屋さん⇒ボディビルだ。何かを手放さなくてはならない時、最も先に手放すものはボディビルだ。いつか、選択を迫られる日が来るかもしれない。そのとき、全てを失わないために、今この瞬間に常に優先順位をつけている。

  • 身体の声を聴け

    筋トレを初めて10年以上が経った。

    未だに発見することばかりだ。ジムに行くたび新しい発見がある。毎回ほとんど同じ動きばっかりしてるのにね。鉄の塊を持ち上げるだけ。スクワットだとしゃがんで立ち上がるだけ。それなのに新しく発見することがある。毎回。すごいな。

    どんどんわかることが増えてくる。今は自分の身体の声を素直に聞くフェーズになっている。「なんかおかしいぞ」「そうじゃないよ」「そうそう」「良い感じ」って語りかけてくる。私は、その声を聴く。耳を澄ませて。そうすると、改善できることもあるし、できないこともある。

    だいたい、身体の声を聞いたところで私にやれることは他の方法を試してみるぐらいしかない。色々試してみても自分が持ってる方法論の中だと解決できないこともある。むしろその方が多い。そのたび身体は「ちがうよ」「ちがうよ」って言うだけ。でも、まあ改善できないので仕方がない。声を聞きつつも「わからんなー」って思いながら日々を過ごす。試行錯誤してみたり、調べてみたり。

    さっきも言ったように、うまくいくこともあれば、いかないこともある。でも、確かにうまくいくことはあるんだ。ひたすらガチャを回す。SRを手に入れるたび、ちょっとずつわかることが増えてくる。ひたすらコレクションしていく。SRを集めていくことで見える景色が広がっていく。今まで見えなかったものも見えるようになる。感じられなかった世界が感じられるようになる。ともすればSRだと思っていたものが実は間違いだったことすらある。

    最近の課題は右肩の位置がうまくはまらないことだ。日常生活の中で困ることはほとんどなかったが、トレーニングをして、ボディビルディングをして、鏡を見て、毎日声を聞いていると、右肩が収まるべき場所に収まっていないことがわかった。ところが昨日、胸椎のストレッチをしていると、右肩が良い位置にはまることがわかった。今まで僧帽筋や胸鎖乳突筋、三角筋、上腕二頭筋…等いろいろと試してみてもそこまで改善が見られなかったのに。不思議だなあ。作用はよくわからないんだけど、専門家じゃないし良いや。とにかく入力に対して出力が決まっているならそれでいい。プラグマティックに行こう。私は工学部出身なので。微分可能か数学的に厳密ではなくていいのだ。SRを引けたら愚直にそれを使っていく。身体の声を聴きながら。

    というわけで、私の身体のアライメントを考えるうえでまた新しいSRが引けた。これを続けていこう。今年で38歳だ。38年間付き合い続けてきたこの身体。まだ新しく理解することがある。何もわかっていないんだな。身体おもしれー。面白すぎる。めちゃくちゃマッチョになるぞ。

  • ホームページを作ること

    とてもいい。

    SNSはアルゴリズムによって、自分のキャラクターに特化した情報しか書けなくなってしまった。

    いや、もしかしたらインターネットで生きていこうとする自分の問題かもしれない。いずれにしても、最早SNSには好き勝手書くことができなくなってしまった。誰かに見られているという感覚もそうだ。

    さらに、AIの登場も大きかった。誰かに向けて何かを書くという行為があまりに簡単になってしまった。しかし、全然面白くないのだ。誰かに向けて書いても自分には語りかけてくれない。

    このページでは誰かに向けて書く必要はない。自分のために書ける。それはとてもすばらしいことだ。構成がへたくそでも問題ない。少し良くない言葉遣いしても問題はない。ここでは、見知らぬ多くの人に向けて文章は書かなくて良いのだ。

    自分のため、さらに私を良く知ってくれているあなたのため。それ以上は求めない場所だ。それはとても心地よい。たこやき屋さんではない自分を出してもいいのだろうか?ブランディングは?そんなことを気にせず言葉を紡げるというのは自由だ。呼吸ができる。

    それでも自分だけしか見えない文章はあまり意味がない。これまでの経験から自分はそういうスタイルなのだと理解した。多くの人には見られたくない。でも、誰にも見られないのも嫌だ。面倒くさいがそうなのだろう。俺のことをわかってくれるお前に見てほしい。わがまま。

    役割の中で生きることによってしか見えない景色も確かにある。ただ、それだけだと息苦しい。

    これから、このホームページでは好き勝手書いていくことになる。もし読んでくれるのであれば嬉しい。インターネット上に自分の場所があるのは心地よい。

    続くかどうかはわからない。でも、今の自分は呼吸できていることを感じている。吸って、吐いて。

  • テスト1

    どうなってるのかを調べたい。

    どんなことができるでしょうか?

  • Hello world!

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