最も当たり前で、最もありふれていて、最も見逃してしまう、最も狂気的な部分

自らの狂気を自ら見つめることはできない。

なぜなら、それは自らにとって当たり前すぎるからだ。

自らの狂気とは、自分にとっては最もありふれていて、見ることなんてできない。呼吸していることを我々は意識することなんてできない。あまりにも当たり前なことを我々は認識することができない。

だが、その当たり前すぎること以外に狂気にたどり着く道はないのだ。意識して行う日々の頑張りなど狂気ではない。それよりも、もっとありふれていて、当たり前で、1日24時間繰り返していること。1年365日ずっと行っていること。呼吸のように当たり前に繰り返してしまう行為。それに下支えされて行っていること。意識する、それ以前のこと。無限に繰り返されてしまうそれ。

そこに狂気は宿る。

その形は、あまりにも異形。狂気と呼ぶほかない。外から見た時、信じられない形をしている。人々は、その異形を垣間見たときに狂気を感じる。無限回繰り返されたそれ。最初は外から見ても理解できる形だったかもしれない。だが、それが繰り返されるうちに理解できないものへと豹変していく。意味が分からない。どうして、その形を保っているのかわからない。単に無限回の繰り返しでその形に至ってしまっただけなのだろう。

2000年前の文明が現代を見たとき、高層ビルを見て何を思うだろうか?飛行機を見て何を思うだろうか?きっと狂気を感じるだろう。人知を超えた形をしている。どうして、このような建造物を作ろうとしたのか、その意味を理解することができない。我々はただ、無限回に繰り返しただけだろう。当たり前にたどり着いたその先に立っている。その異常性に気づくこともできない。そこで営まれる活動を当たり前だと思っている。

例えば、教員が情報発信するとき。自らの最も面白い部分をスポイルしてしまうことがある。教員をしながらビジネスの勉強をしているこの教員は、自らの強みは「ビジネスを知っていること」だと思ってしまう。毎日1時間もビジネスの勉強をしている。それがすごいと思っている。そして、SNSの海にビジネスの情報を発信してしまう。ところが、そんなもの何も面白くない。この教員の持つ真の面白さは毎日意識せずに8時間も行っている「教育についての実践知」なのに。だが、この教員は気づかない。周りの教員も当たり前に毎日8時間教育を行っているから。自分の教育に関する実践知がいかに異常かに気づけない。当たり前だと思ってしまう。周りの教員が持っていない毎日1時間勉強しているビジネスの知識を凄いと思ってしまう。そんなものビジネスパーソンは毎日8時間やっているのに。

そんなことにさえ気づかない。

己の異常性はおそらく伝聞でしか認識することができない。誰かに指摘してもらうことで初めて狂気だとわかるのだ。

狂気。それは誰もが有している。ただ、自分で気づくことはできない。決して異形には見えない。なぜなら自分にとっては最も当たり前だからだ。最も当たり前がゆえに、もっともありふれた姿をしている。ありふれた姿をしているがゆえに、常に見逃してしまう。そんな最も狂気的な部分。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です