優先順位をつけて生きている。
私にとって圧倒的に大切なもの。というか比べようがないもの。おそらく自分の命よりも優先するもの。それは娘が生きていること。それが人生の全てであり、他に比することができない。それが私にとっての生存である。これのために全てがある。そして、この生存は「より良く」というものはない。娘が生きているということが脅かされていなければ私の生存は全て満たされている。これは家族である。生存である。私の最も内部にあるもの。それが家族であり、もっともっと限定していけば娘が生きていることである。これが脅かされるとき、私はそのすべてをかなぐり捨ててでも守らなくてはならない。
私にとって、この生存つまり家族と私が生き延びていること。こが満たされていれば他のすべてはオマケでしかない。あらゆることがオマケである。
このオマケの中でも最も優先順位が高いものが私にとっては雑談であり、つまり、たこやき屋さんである。ここには私の生活がある。役割(機能性)のみによるつながりではなく、関係性のつながりである。雑談は機能性ではない、それ自体が目的である。幸いなことにたこやき屋さんを始めてから住んでいる町で雑談できる人がたくさん生まれた。町を歩けば知り合いにあたる。ここには生活がある。機能性のみで分割されていない、統合的な生活がある。これは、生存の次に全てを捨てたとしても手に入れたい。私にとって豊かさそのものである。
そして、生存、生活が満たされたうえで今もっとも情熱的に渇望しているのがボディビルである。生存や生活には評価軸が存在しない。そこはあらゆる評価軸が溶け出し、他人からの評価を必要としない世界だ。それはとても心地いい。それは豊かさだ。ただ、そこに渇望はない。渇望はあえて他人の用意した評価軸において自分が通用するかを挑戦することだ。冷静に考えれば100m走でどれだけ速く走れるかなんてほとんどの人にとって意味がない。しかし、そこに世界中の人が熱狂する。それは物語の力だ。それは物差しの力だ。そこに私は挑戦している。他人の物語の中に自分を埋め込もうとしている。今、自分の人生の時間のほとんどをボディビルに費やそうとしている。渇望している。
私の情熱は現在、ボディビル⇒たこやき屋さん⇒家族だ。しかし、優先順位は家族⇒たこやき屋さん⇒ボディビルだ。何かを手放さなくてはならない時、最も先に手放すものはボディビルだ。いつか、選択を迫られる日が来るかもしれない。そのとき、全てを失わないために、今この瞬間に常に優先順位をつけている。
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