投稿者: kawahiii

  • 現実も生きろ

    現実も生きろ。

    俺たちは飯を食っていかなきゃならない。

    飯を食えるようになったうえでしか、やりたいことをやれない。

    飯を食わなきゃ死んでしまうぞ。

    「やりたいことがあるんです!」

    うるさい!だまれ!飯を食え!!

    別に、飯を食えるようにならないでやりたいことをしてもいい。ただ、それは覚悟を持ってやれ。

    餓死してでも、やりたいことをやれたら満足か?その覚悟がないなら飯を食えるようになれ。

    実は、現代日本では飯を食えるスキルがなくても問題ない。のらりくらりと生きていける。でも、それは他の色んなものを捨てる覚悟が必要だ。友人、家族、暖かい家、清潔な着替え。どこまでなら捨てられる?それを捨てる覚悟があるなら飯を食えるようになるより、やりたいことを優先できる。

    その覚悟がないなら、制限の中から選んで、その範囲でやりたいことをやればいい。別に今までも変わらないだろう?俺たちは生まれながらにして制限の中で生きている。コスパの問題だ。コスパを無視してやりたいことをするなら覚悟が問われる。きっと、それも良い人生だ。

    好きに生きればいい。本当に好きに生きればいい。誰かの言葉を聞いたって、その誰かも自分の人生に責任なんて取ってくれない。

    当然だろう?自分以外は自分の人生に責任を取れない。

    現実ってなんだ?いつだって突きつけられる。

    「3年後、1億円稼げるようになりたいんです!」
    頑張ればできるかもしれない!チャンスあるな!めちゃくちゃ頑張れよ!!

    「2年と360日何も努力しませんでした。それでも5日後に1億円稼げるようになりたいんです!」
    いや、それは無理じゃない!?さすがに厳しすぎる。

    「どうして応援してくれないんですか!?まだ可能性あるじゃないですか!!」
    そうかもしれないね。可能性はあるね。0じゃないよ。可能性あるね!頑張ってね!!良いと思う!!それでいいならね

    現実ってなんだ?いつだって突きつけられる。

    何をしたって良いよ。どんな選択肢を選んだっていいよ。だって誰も責任は取ってくれないから。全部自分で決めろ。本当のところ、どんな選択をしたって良い。

    やりたいことをやればいい。

    「僕はこの会社で働きたいんです!!どうして働けないんですか!?」残念ながら決めるのは君じゃないんだ。

    「僕は君と付き合いたいんだ!!どうして付き合ってくれないんだ!?」残念ながら決めるのは君じゃないんだ。

    「僕」にできることはなんだろう?会社で働けるようにスキルを高めるしかない。「君」に好きになってもらうように魅力を高めるしかない。それ以外にあるか?やりたいことなんだろう?やればいい。結果としてうまくいくかは関係ない。本当にやりたいことならやるしかない。失敗して飯が食えなくなってでも。覚悟があるならいいだろう。覚悟がないなら、

    現実も生きろ。

  • 大人になること、クソなこと

    小さなころは無敵だった。なんだってできるし、なんにでもなれた。

    それが、成長のなかでいろんな壁にぶち当たる。

    「あれ?これできないや」

    「頑張ったのに、失敗しちゃった」

    「なんだか最近ネガティブなんだ」

    だって。

    それは悪い事じゃないよ。自分にやれることは何かを考えてる。現実を生きてる。

    空を飛べると勘違いして、ビルから飛び降りちゃいけないから。

    それが大人になるってことだから。

    でもね、やっぱりクソなんだ。この世界は。社会は。クソくらえ。

    誰だってやりたいことがある。でも、そのやりたいことを「どうせものにならないから」って諦めさせてしまう。他人に直接そう言われるわけじゃない。でも、知らずにそう感じてしまう。

    「役に立つか?」「うまくやれるか?」

    クソみたいな言葉で心はくじかれる。

    やっぱりクソなんだ。本当のところ、やりたいことに役に立つとか、うまくやれるとかは関係ない。

    俺たちの生きるこの世界は『やりたいこと』と『仕事』を結び付けてこようとする。そんなの嘘なのに。別にやりたいことを仕事にしなくてもいいんだ。生きていくのに仕事が必要だとして、それが真実だとしても、どうして、『やりたいこと』を仕事にしなきゃいけないんだ。

    別にやりたいことを仕事にしなくたっていい。考えてみれば当たり前のことなのに。

    そりゃ仕事にするなら「役に立つ」とか「うまくやれる」とかが大切だ。人よりも少ない時間で多くの成果を出せる方が良い。でも、『やりたいこと』には関係ないだろう。だってやりたいことなんだから。

    絵が下手だって描きたきゃ描けばいい。イラストレーターとして食って行きたいならうまくなれ。

    野球が下手だってやりたきゃやればいい。プロ野球選手になるにはうまくなれ。

    全然関係ないだろう?『やりたいこと』と「うまくやれる」ってことは。

    大人になると、色んな事が複雑になってしまう。『やりたいこと』とか『仕事』とか『役に立つか』とか『ものになるか』とか。全部がごちゃ混ぜにして考えてしまう。そんなの嘘なのに。

    『仕事』をするなら、自分の立ち位置を測って役に立つとか、ものになるかを考えた方がいい。飯は食っていかなきゃならない。大人になるってそういうことだろ。良いじゃないか。現実。大いに結構だ。

    でも、『やりたいこと』はそうじゃない。どうでもいい。うまくやるとか、役に立つとかクソくらえだ。なんだっていい。やりたいことがあって、今持っている能力で足りないなら、練習すればいいよ。やりたいことがあるなら、やるしかないじゃないか。結果的にものにならなくてもいい。気にしなくていい。そんなことは仕事にやらせておけばいい。だから安心して今から始めたらいい。

    その足かせになるなら、『やりたいこと』に仕事を結び付けようとするなら、『やりたいこと』に向かって成果を求めさせるなら、やっぱり世界はクソなんだって言うしかない。

    本当はもっと単純なことなのに。

    「役に立つか?」「うまくやれるか?」

    クソみたいな言葉で心はくじかれる。

    この世界はクソだ。

  • 「そりゃそうだろ」みたいな勉強をしている

    今年に入ってからお店に来る中学生に勉強を教えている。

    最近、ここでの勉強の様子がなんか「そりゃそうだろ」みたいな感じだなって思う。

    なんか、冷静に考えると普通の塾とか学校とかの方が変なんだよね。多分。だって、一言もしゃべらないで前を向かせて、前に立っている人がしゃべり続けるなんて普通に考えたら意味わかんないでしょ。だからと言って、先生がテーマを与えて、そのテーマについてみんなで話し合っていくとかも、まあちょっと変なんだよね。あんまり普通じゃなくない?特殊な行為をしてるって感じる。いや、それがダメというわけじゃない。成果を出すならそういった形も良いと思う。そっちの方が良いと思う。

    でも、うちではそれが馴染まなかったな。うちの店での形は、うちの店における「そりゃそうだろ」みたいな感じになってる。なんか説明は難しいんだけど。それぞれ勉強道具を持ってきて、わからんところを私に聞くみたいな。勉強の仕方も教えるし、必要なら授業もする。なんか、まあ、そりゃそうだよな、みたいな感じ。説明が難しいな。まあ、でもそんな感じ。

    おしまい。

  • 幸福に麻痺している

    きっと、幸福に麻痺しているんだよな、みんな。

    朝、暖かい布団で目覚める。外敵におびえなくて良い。

    蛇口を開くと清潔な水が出てくる。顔を洗い、うがいをする。

    朝ごはんを満足するまで食べる。食品は衛生管理が行き届いている。

    こんなの奇跡でしかないのに。

    奇跡の連続の中で生きている。

    人類の歴史で、きっと大半の人が夢見た奇跡。その幸福を全て手に入れた日々だ。

    毎日、その感謝を捧げ続けても足りないぐらいだ。

    でも、人は物語の中で死ぬ。衣食住が満たされていようとも、物語に追い詰められて人は死ぬ。

    私にとっては、飢餓より、職場の人間関係の方がリアルに映る。

    歴史の中で、ユートピアを夢見たかつての人々は想像できただろうか。衣食住が満たされた奇跡の日々に、人が物語の中で自ら死を選ぶことを。

    みんな違って、みんな違う地獄がある。

    きっとどちらも地獄なんだろう。

    誰かの物語を生きることはできない。ユートピアの中で奇跡を感じられない。

    日々に感謝を捧げることを続けられない。

    きっと、幸福に麻痺している。

  • バックダブルバイセップスのポージング

    軸足に体重を全部のせて、流す脚のハムをいれるのが良さそう。真ん中に重心乗せるとあんま良くない。安定しないを

  • 「できるだけたくさんの人に知ってもらう」と、「できるだけたくさんのことを知ってもらう」は違う

    タイトルにもあるように、「たくさん知ってもらう」というのでも、「できるだけたくさんの人」と「できるだけたくさんのこと」ってのは全然違うなと思うわけです。

    例えば、私は多分けっこうたくさんの人に知られてるんですよ。それはyoutubeで取材を受けた動画が3本ぐらいでトータル3000万再生ぐらいされているので、それぐらいの人に見られてるんですね。でも、それを見てる人たちのほとんどは私の趣味がボディビルであることは知らないんですよ。もしかしたら学校の先生してることすら知らない人もいると思う。一方で、私の友人とか家族はそこまで多くいるわけじゃないですけど、私についていろんなことを知ってるんですね。

    という感じで、「たくさんの人」に知ってもらうことは、「たくさんのこと」を知ってもらうのとは根本的に違うなあと思うんです。

    で、何がしたいかというと「たくさんのこと」を知ってもらう人を増やしていきたいなと思ってるんですが、これは基本的に「たくさんの人」に知ってもらうことと相性が良くない。というか、あまりにもたくさんの人に知られるのは基本的にリスクだと思っています。それは誤解をはらむからですね。特にインターネットで。自分の村では適切に届く言葉でも、他の村に届くと侮辱になりうる。それはあまり良くないな、と。

    という話ですね。なので、バズらないように、ちゃんとわかってくれそうな人たちに向けて言葉を紡いでいく。

    一面的な切り取りを発信し続けることも、肌感覚としておそらく良くないと感じているからですね。これは大局観的な話であり、かつ、肌感覚です。客観的な信憑性はまったくないw

    とはいっても、じゃあどうやって集客するんですか?という話になるわけです。これが難しい。でも、まあ、これまでの経験から言うとそういった「ちゃんと知りたい」みたいな人が来たときに集まる場所がないことは愚策だと思っているので、その場所を用意しようと思っているわけです。ラジオとか、個人HPとか、そういった場所はバズらないけど、集まれる場所ではあると思うから。

    あ、ラジオみたいなの始めようかなと思ってます。たこやき先生のバズらないラジオ。

    今、すでに「自分のことを知ろうという人」が多分いるんですね。その人たちに向けて、番組を作ってしゃべろう。個人HPでの記事更新がふらふらと続いてるのすごいなと思ってます。これは良い場所だった。文章はむちゃくちゃで、たぶん「たくさんの人」には届かないけど「たくさんのこと」を知ってもらえそうだ。おわり。

  • 振り返りについて。

    振り返りについて考える。

    振り返るというのは、結局のところカードゲームがうまくなるようなものなんだろうと思う。

    カードゲームというのは、盤面に応じて手札を出していくゲームだ。人生というのはカードゲームによく似ている。限られた手札を盤面に合わせて使っていく。

    ただし、人生はカードゲームとすこし違うところがある。

    それは、みんな自分の手札をよくわかってないことだ。

    多くの人間は自分の手札に何があるかわかっていない。自分はどんなことが得意なのか?どんな場面で力が発揮できるのか、あるいは何らかの状況にある時、明らかに弱体化してしまう。そういったことが1つ1つ見えていなければその手札はうまく使えない。

    客観的な指標が見えるものはある程度理解しやすい。例えば同級生に比べてテストの点数が取れるだとか、他の同級生に比べて足が速いとか。そういったことは数値化されて非常に見やすい。一方でそういった数値化されないもの、観測しづらいもの、はなかなか自分の手札として認識することができない。例えば他の人たちよりもうまく説明ができるとか先輩たちとうまく関わることができるとか、他人に合わすことができるとか。あるいはその逆で他人とうまく合わせられないとか。説明が下手だとか。そういったことは実は自分では結構認識しづらいものである。この普段数値化されない能力といったものはいつ気づくのだろうかと言うと、実際そういう場面に何度も遭遇して、他人から指摘されて、それで「あ、自分はこうだったのか」と気づくのである。これこそが振り返りだ。

    例えばテスト勉強を振り返ってみようと考えた時に実際の成績が良かったか、悪かったかというのは事実であるが、その事実に対してどういった取り組みを行ったかというのは、振り返らなければなかなか見えないものである。社会の点数が取れたのは、ワークを何周もすることができたからだとか。数学の点数が悪かったのは復習しようと思っていたのに寝てしまったとか。

    自分の手札に何があるのかというのは経験するだけではなかなか分からない。それを振り返って初めて気づくものである。先ほどの例であげれば、ワークを何周もしたけども、成績が上がらない人もいれば、ワークを何周もして成績が上がったという人もいる。様々な勉強方法を試していく中で自分にあった勉強方法というのが見つかってくるのである。これはすなわち手札だ。

    復習しようと思っていたのに寝てしまったというのも自分の手札の1つになる。これはそのままだと手札にならないので、どういった環境であれば寝ずに勉強ができるのかとか。あるいは夜はどうしても寝てしまうので、それは変えられないから、夜に勉強することは諦めてしまうというのも1つである。つまり、夜どうしても起きて勉強することができないというのは自分の手札なのである。ネガティブに見えるかもしれないが、これは常に自分に影響を及ぼしてしまうタイプのカードなのである。ただ、このカードが悪影響を及ばさないプレイングは可能だろう。夜が使えないとわかっていれば、使わなくても問題ないように生活すればよいのだ。

    そう考えると、この人生というカードゲームというのは可変的なものと固定的なものがあることが分かる。それも全て可変であり、全て固定であるというよりかは、ある程度可変的であり、ある程度固定的である。

    手札はおよその場合、「こうすればこうなる」と言った固定的なものであろう。一方で、じゃあその場面でどのカードを切るのかというのは可変的な部分である。

    例えばトランプの大富豪で考えると、手札にあるカードは決まっている。それは配られたカードで勝負するしかないからだ。とはいえ、どの順番でカードを切っていくのかということはえ変えることができる。これが固定的なものと可変的なものの、大きな違いだ。ただ、人生において多くのプレイヤーは手札に何があるかもわからずに大富豪をプレイしている状態に陥っている。

    振り返るというのは1回だけ固有の状況に対して行うものではない。様々な状況において振り返りを繰り返していくことで、自分の手札には何があるのか?これをまず明確にしていくのが大切だ。そうすれば、その後は各場面に対してどのカードを切っていくのかというプレイングのところも洗練されていくのである。

    自分の手札というのは、自分の性質やり方のみに限定されるものではない。例えば友人だとか自分の持ってるお金だとか、そういった外的なアセットのようなものも自分の手札になるだろう。これは状況に応じて明らかに変わっていくものであり、また観測もしやすいので、それほど振り返る必要はないかもしれない。整理することはとても大切だが。

    少し話が散らかってしまった。とにかく人生とはカードゲームに似ている。ただ、残念ながら手札がよく見えないのだ。だから、自分の手札を少しずつ明らかにしていく必要がある。その方法が振り返りなのだ。経験を経て、何ができるのか、何ができないのか、それを明らかにしていく。

    振り返りとはカードゲームが上手くなる方法みたいなものだろう。

  • 日常をこそ

    ありきたりな毎日が好きだ。

    今日は昨日と変わりないし、明日は今日の繰り返し。

    明後日には今日の出来事なんて忘れている。

    そんな毎日が好きだ。

    大好きだ。

    感情を大きく揺さぶるような出来事なんて、起こらない。
    めちゃくちゃ楽しいなんてことも、まるでない。

    それでも、心地良い。続けたいと思う。

    鶏むね肉と白米と味噌汁の食事って大したことはない。でも毎食「美味しいな」って感じられる。

    感動なんていらない。

    繰り返しの毎日。ネガティブに語られることもあるが、そんなことは絶対にない。ぬるま湯につかったような。特に刺激もない日々。

    本当の日常は語るべき物語にならない。それはまるで変化のない毎日だから。でも確実に変わってるんだよな。共に生きている。

    イベントは楽しい。感動だってする。高価な外食は特別に美味しいかもしれない。でも、俺はイベントを生きられない。毎日コース料理は食べたくない。

    イベントは好きだ。でも、それを日々にはしたくない。どうしてかはわからない。日常を好きな理由すらわからない。でも理由なんていらないんだよな。確信しているから。

    家族と過ごす日々、鶏むね肉を食べて、たこやき屋さんで子どもたちとくだらない話をする。

    日常をこそ

  • 目標と努力。呪いが足りない。

    そもそも、「努力をした方が良い」みたいな考え方が嫌いだ。

    うまくやるなら、努力せずにうまくやれる分野を見つけて、そこで過ごした方が良い。

    努力したからといって、成果が出るわけではない。根本的に向いていない種目を選んでいる可能性がある。自分よりも頑張っていないやつが自分よりも成果を出すことなんてよくある話だ。なら、根本的に向いている種目を選んで、努力をせずに努力しているヤツよりも成果を出せばいい。成果を出すだけの世界なら、だ。

    ただ、人類は愚かである。「どうしてもここで勝ちたい」と思ってしまうことがある。その才能がないにも関わらず。どうしようもなく囚われてしまっている。それは自分に向いているかは関係がない。単に、「どうしてもここで勝ちたい」と思ってしまっただけだ。それを目標と呼んだりすることもある。

    根本的に向いていないにも関わらず、そこで成果を出したいと思ってしまったらどうすればいいのか?

    努力するしかないのだ。

    才能があるか?向いているか?そんなことは一切関係がない。「どうしてもここで勝ちたい」そう思ってしまったのなら、やるしかないのだ。

    「どうしてもここで勝ちたい。でも才能がない。」
    「なら辞めるか?」
    「いいや、やめられない。」
    「だって、どうしてもここで勝ちたいからだ。」

    「どうしてもここで勝ちたい。そして才能があった。」
    「なら努力しないのか?」
    「いいや、努力する。」
    「だって、どうしてもここで勝ちたいからだ。」

    努力するかしないか。実はそれは才能の有無に関係ない。その目標に今の自分が達しているかどうかだけだ。目標があって、努力ができないのなら、それは「本当にやりたいと思えていないだけ」だろう。より優先すべきことがあっただけだ。呪いが足りない。もっと呪われなくてはならない。

    そもそも、「努力をした方が良い」みたいな考え方が嫌いだ。

    目標があるなら努力した方が良いと思う。でも、そもそも目標を持たないで生きる生き方だってある。そこに努力なんていらない。楽しく生きることだってできる。努力しなければならないなんて嘘だ。条件つきの行為でしかない。むしろ、努力なんてするべきじゃないってシーンすらある。好きこそものの上手なれという言葉だってある。

    でも、もし目標があるのなら、努力した方が良い。というか、しなければならない。する以外の選択肢はない。だって、「どうしてもここで勝ちたい」んだから。囚われているんだから。

    努力できないのなら呪いが足りないんだろう。

    呪いが足りない。

    もっと呪いを。

  • コンディショニングを怠らない

    私は愚かなので、コンディショニングの重要性を理解してもすぐに忘れるさぼってしまう。

    調子が悪くなってコンディショニングをして調子が良くなる。それを数週間続ける。そうするとそれが当たり前だと思うようになり、コンディショニングをサボってしまう。そして数週間数ヶ月経つとなんだか少しずつ悪くなっていって、なんだか調子が悪いなという形になってくる。そこで初めてコンディショニングが崩れてるのではないかと気づく。そして調子が良かった頃、どんなコンディショニングをしていたのかも思い出せず、試行錯誤をしてどうにかたどり着く。そんなことを繰り返している。

    最近も、目がずっと重くて首も痛くて、なんとなく肩周りが全部調子悪かったんですけど、ちょっと思い立ってマッサージをしたり、コンディショニングを重視したら結構良くなりましたんで、備忘録として残しときます。

    胸鎖乳突筋のマッサージを起始部から停止部までかけて全部やります。

    後頭下筋のマッサージをします。

    オガトレのストレッチやります。

    あとはそれに加えて、体の声を聞きながら、ちょっとマッサージやストレッチをしていきます。完了。

    胸鎖関節の動きを出します。