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  • 「諦められない」以外は全部オマケ。反脆弱性の生活設計。

    生活の設計に反脆弱性を持たせるのに大切なことは、まず最初に「自分は何が一番大切で、何を諦められるか?」を決めることじゃないかな。

    つまり、「諦められないもの」以外は全てオマケでしかないと捉える。

    反脆弱性を持たせるにはオプション性が大切だとニコラスタレブは言っていて、それは『選べる』、つまり「やっても良いが、やらなくても良い」という状況を生み出さないといけない。

    それは私の言葉で言えば『オマケ』だ。

    じゃあ、どうすれば『オマケ』は作り出せるのか?

    人生にオマケを作り出すのは、まあ難しい話ではない。

    要するに、自分で何がオマケで、何がオマケじゃないかを決めてしまえば良いのだ。

    最初の話に戻せば「何が捨てられないか」をキチンと考えることだ。

    私たちは、まず、そもそも「何が本当に捨てられないか」を考えることが難しい。

    家族、家、友だち、収入、仕事、社会的地位、夢、恋人…

    今、手にあるどれもが大切で順番をつけるなんてできない。

    しかし、この「どれもが大切だ」という状況にオプション性は存在しない。

    なぜなら、オプションというのは「やってもやらなくても良い」という選択肢がある状況だからだ。

    どれも大切で、どれも捨てられないなら、そこに選択肢はない。「やる」しかない。

    その人生は決して悪いものではない。ただ反脆弱性を持つのは難しいかもしれないし、まあ、割と大変だろうなと思う。

    なので、反脆弱性のオプション性を持つための前提として「自分は何をオマケと捉えられるだろうか?」つまり、言い換えれば「何を捨てられるだろうか?」を考えないといけないのだと思う。

    オマケをやるのは楽しいですよ。だって、オマケはやらなくても良いんだから。失敗しても良い。失敗しても、捨てられないものに限定的な影響しか及ぼさない。

    私は「自分のお店は宇宙一面白い」と思っていますが、オマケです。

    逆説的に聞こえるかもしれないけど、私の場合はオマケだからやりたいようにやれている。矜持をやれる。

    だって、お店に対して好き勝手やっても、私の本当に大切なもの、捨てられないもの、には影響を及ぼさないから。

    私にとって捨てられないものは「娘がそれなりに楽しく生きている」ことです。

    それが害されるなら泥水だって啜るし、尻尾を振ってでも生きていくつもり。仕事の矜持なんて捨ててやる。

    人によって違うんでしょう。捨てられないものってのは。

    ただ、「どれも大切だ」とか言ってても、手がいっぱいになっていたら、どこかで何かを手放さないといけないかもしれない。

    それなら「守るべきもの」をいくつかに限定して、それが叶えられるなら他の全てはどっちでもいいやって、そう思えるように、あらゆることをオマケにして生きていくのも良いんじゃないかなって思います。

    ただ、難しいのは決めたつもりで生きていても、色んなものが大切に思えてきちゃって、気づけば手荷物がたくさんになってしまってることなんだよね。

    だから、「なんか最近重いなあ」と思うと、棚卸しするようにしてる。

    どれも大切なんだけど、それでも捨てなきゃいけないとき何を捨てられるか?

    みたいな。

    まあ、そんな感じ。

    選んでやってる。

  • 稼ぐ方法は「割とどうでもいい商品を作る」こと

    最近は、ちゃんと生き延びるためにお金を稼ごうと考えています。

    で、これまでの経験を振り返ってわかってきたことが、お金を稼ぐ方法は「割とどうでもいい商品を作ること」だと気づいたんですね。

    あんまわからない話だと思うので、もう少し詳しく描いてみます。

    私は今、たこやき屋さんを経営していて、このお店は宇宙で一番面白いと思ってるんですよ。で、私にはこれを商品として色んな人に売ることはできなかったんですね。例えば、うちの店のできごとを他の人にわかりやすく描いて発信するとか、ノウハウを発売していくとか、そういったことができない。

    自分の言葉で語るならできるだけ誤解が生まれないように語りたいし、そこに再現性なんて語りたくない。そうなると商品にはならないんですよ。

    だから、私にとっては『思い入れがあるものは売れない』。

    受けとる人に向けてチューニングできない。マーケットを見れない。他の人が来て、うちの店をコンテンツにすることは大丈夫なんですが、自分が語ることはできない。

    当然、再現性なんて語りたくないわけだから、仕組化なんてできない。スケールなんてしようがない。無理だ。

    そうなると、ある程度稼ごうと思うには「割とどうでもいい商品」を作らないといけないということになるわけです。

    いや、「どうでもいい」と言っても、適当な商品を作るというわけではないです。ちゃんと割り切る必要があるんでしょうね。

    なんだろう?属人性を持たなければ大丈夫そうな気がする。仕組み自体とか?構造とか?でも、それらを説明しようとするとダメな気がするな。

    抽象的な話を言えば、その商品が自分のアイデンティティじゃなければ大丈夫だと思う。アイデンティティじゃなければ売れるので。

    具体的にはまだわかってないけど、アイデンティティじゃなければ売れるってとこだけは、ほぼ間違いないので、ちゃんと「どうでもいい」商品って何かをまた考えていこうと思います。いや、でも「どうでもいい」を説明できてなくても、商品を見たらきっとわかるので大丈夫か。おしまい。

  • 最も当たり前で、最もありふれていて、最も見逃してしまう、最も狂気的な部分

    自らの狂気を自ら見つめることはできない。

    なぜなら、それは自らにとって当たり前すぎるからだ。

    自らの狂気とは、自分にとっては最もありふれていて、見ることなんてできない。呼吸していることを我々は意識することなんてできない。あまりにも当たり前なことを我々は認識することができない。

    だが、その当たり前すぎること以外に狂気にたどり着く道はないのだ。意識して行う日々の頑張りなど狂気ではない。それよりも、もっとありふれていて、当たり前で、1日24時間繰り返していること。1年365日ずっと行っていること。呼吸のように当たり前に繰り返してしまう行為。それに下支えされて行っていること。意識する、それ以前のこと。無限に繰り返されてしまうそれ。

    そこに狂気は宿る。

    その形は、あまりにも異形。狂気と呼ぶほかない。外から見た時、信じられない形をしている。人々は、その異形を垣間見たときに狂気を感じる。無限回繰り返されたそれ。最初は外から見ても理解できる形だったかもしれない。だが、それが繰り返されるうちに理解できないものへと豹変していく。意味が分からない。どうして、その形を保っているのかわからない。単に無限回の繰り返しでその形に至ってしまっただけなのだろう。

    2000年前の文明が現代を見たとき、高層ビルを見て何を思うだろうか?飛行機を見て何を思うだろうか?きっと狂気を感じるだろう。人知を超えた形をしている。どうして、このような建造物を作ろうとしたのか、その意味を理解することができない。我々はただ、無限回に繰り返しただけだろう。当たり前にたどり着いたその先に立っている。その異常性に気づくこともできない。そこで営まれる活動を当たり前だと思っている。

    例えば、教員が情報発信するとき。自らの最も面白い部分をスポイルしてしまうことがある。教員をしながらビジネスの勉強をしているこの教員は、自らの強みは「ビジネスを知っていること」だと思ってしまう。毎日1時間もビジネスの勉強をしている。それがすごいと思っている。そして、SNSの海にビジネスの情報を発信してしまう。ところが、そんなもの何も面白くない。この教員の持つ真の面白さは毎日意識せずに8時間も行っている「教育についての実践知」なのに。だが、この教員は気づかない。周りの教員も当たり前に毎日8時間教育を行っているから。自分の教育に関する実践知がいかに異常かに気づけない。当たり前だと思ってしまう。周りの教員が持っていない毎日1時間勉強しているビジネスの知識を凄いと思ってしまう。そんなものビジネスパーソンは毎日8時間やっているのに。

    そんなことにさえ気づかない。

    己の異常性はおそらく伝聞でしか認識することができない。誰かに指摘してもらうことで初めて狂気だとわかるのだ。

    狂気。それは誰もが有している。ただ、自分で気づくことはできない。決して異形には見えない。なぜなら自分にとっては最も当たり前だからだ。最も当たり前がゆえに、もっともありふれた姿をしている。ありふれた姿をしているがゆえに、常に見逃してしまう。そんな最も狂気的な部分。

  • 現実も生きろ

    現実も生きろ。

    俺たちは飯を食っていかなきゃならない。

    飯を食えるようになったうえでしか、やりたいことをやれない。

    飯を食わなきゃ死んでしまうぞ。

    「やりたいことがあるんです!」

    うるさい!だまれ!飯を食え!!

    別に、飯を食えるようにならないでやりたいことをしてもいい。ただ、それは覚悟を持ってやれ。

    餓死してでも、やりたいことをやれたら満足か?その覚悟がないなら飯を食えるようになれ。

    実は、現代日本では飯を食えるスキルがなくても問題ない。のらりくらりと生きていける。でも、それは他の色んなものを捨てる覚悟が必要だ。友人、家族、暖かい家、清潔な着替え。どこまでなら捨てられる?それを捨てる覚悟があるなら飯を食えるようになるより、やりたいことを優先できる。

    その覚悟がないなら、制限の中から選んで、その範囲でやりたいことをやればいい。別に今までも変わらないだろう?俺たちは生まれながらにして制限の中で生きている。コスパの問題だ。コスパを無視してやりたいことをするなら覚悟が問われる。きっと、それも良い人生だ。

    好きに生きればいい。本当に好きに生きればいい。誰かの言葉を聞いたって、その誰かも自分の人生に責任なんて取ってくれない。

    当然だろう?自分以外は自分の人生に責任を取れない。

    現実ってなんだ?いつだって突きつけられる。

    「3年後、1億円稼げるようになりたいんです!」
    頑張ればできるかもしれない!チャンスあるな!めちゃくちゃ頑張れよ!!

    「2年と360日何も努力しませんでした。それでも5日後に1億円稼げるようになりたいんです!」
    いや、それは無理じゃない!?さすがに厳しすぎる。

    「どうして応援してくれないんですか!?まだ可能性あるじゃないですか!!」
    そうかもしれないね。可能性はあるね。0じゃないよ。可能性あるね!頑張ってね!!良いと思う!!それでいいならね

    現実ってなんだ?いつだって突きつけられる。

    何をしたって良いよ。どんな選択肢を選んだっていいよ。だって誰も責任は取ってくれないから。全部自分で決めろ。本当のところ、どんな選択をしたって良い。

    やりたいことをやればいい。

    「僕はこの会社で働きたいんです!!どうして働けないんですか!?」残念ながら決めるのは君じゃないんだ。

    「僕は君と付き合いたいんだ!!どうして付き合ってくれないんだ!?」残念ながら決めるのは君じゃないんだ。

    「僕」にできることはなんだろう?会社で働けるようにスキルを高めるしかない。「君」に好きになってもらうように魅力を高めるしかない。それ以外にあるか?やりたいことなんだろう?やればいい。結果としてうまくいくかは関係ない。本当にやりたいことならやるしかない。失敗して飯が食えなくなってでも。覚悟があるならいいだろう。覚悟がないなら、

    現実も生きろ。

  • 幸福に麻痺している

    きっと、幸福に麻痺しているんだよな、みんな。

    朝、暖かい布団で目覚める。外敵におびえなくて良い。

    蛇口を開くと清潔な水が出てくる。顔を洗い、うがいをする。

    朝ごはんを満足するまで食べる。食品は衛生管理が行き届いている。

    こんなの奇跡でしかないのに。

    奇跡の連続の中で生きている。

    人類の歴史で、きっと大半の人が夢見た奇跡。その幸福を全て手に入れた日々だ。

    毎日、その感謝を捧げ続けても足りないぐらいだ。

    でも、人は物語の中で死ぬ。衣食住が満たされていようとも、物語に追い詰められて人は死ぬ。

    私にとっては、飢餓より、職場の人間関係の方がリアルに映る。

    歴史の中で、ユートピアを夢見たかつての人々は想像できただろうか。衣食住が満たされた奇跡の日々に、人が物語の中で自ら死を選ぶことを。

    みんな違って、みんな違う地獄がある。

    きっとどちらも地獄なんだろう。

    誰かの物語を生きることはできない。ユートピアの中で奇跡を感じられない。

    日々に感謝を捧げることを続けられない。

    きっと、幸福に麻痺している。

  • バックダブルバイセップスのポージング

    軸足に体重を全部のせて、流す脚のハムをいれるのが良さそう。真ん中に重心乗せるとあんま良くない。安定しないを

  • Hello world!

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